雨は夜のうちに収まった。遊びつかれた雷獣は、そら共々、二階の屋根の上で寝ている。
七海はもう日光街道に入った頃だろう。木戸も番所も抜け道はいくらでもある。本郷も涼しいうちに往診に出かける。赤ん坊の傷はまだ残っているが、痛みは治まってきたようだ。木箱から薬を取り出す。
「桜の香りがしますねぇ」
「蘭方の薬です。痛みによく効くと言われています」
「へぇ、向こうにも桜があるんですか」
明日か明後日には傷も治ると伝え、家を出る。治る――治さなければいけない。桜の――ゆめみの花が効く傷は、物の怪によるものだ。
「鬼なんて、本当にいると思っているのかしら」
診療所には桜子と金太郎がいた。瑞枝は用事で外に出、たまたま通りかかった二人が暇だからと留守番をかってくれたらしい。桜子の手には、究の瓦版。金太郎は憮然としたまま答える。
「だったら他に何かあるってのか」
桜子は鬼も信じていなければ怖くもない。金太郎はその反対だ。話が合うはずもないのに、何故一緒にいるのか。
「そうね。例えば、あの二人は心中に見せかけて殺された。で、身元を分からなくするため、骨だけにした」
「だから、あんなん人にできるわけねーっての」
「あら。なら、鬼でも見たの?」
「いや…」
「先生、そうは考えられませんか?」
勝ち誇ったように、桜子は本郷に話を振る。彼女を無視するのは難しい。
「短い時間で骨だけにする方法があれば考えられるだろうが、着物はそのままだったのなら、おかしくはないか。あの着物はそれなりに良いものだった」
いつも言い負かされている金太郎が勢いよく頷く。
「そーっすよね。やっぱり鬼」
「なら、先生はどうお考えに?」
なるほど、彼女は究に瓦版について文句を言いにきたのだろう。本人が留守で、ならばとここで待っていたに違いない。彼女も事件が起これば首を突っ込むほう、金太郎は運悪く捕まったか。
「二人が死んだ理由と、二人が骨になったのには関係なさそうだがな」
「じゃぁ、邪教の信者か変人が、たまたまあった死体を骨にした?」
「だから鬼」
「あんたは黙ってなさい」
どうしたものかたと腕を組んだところで、運良く使いがやって来た。二人には饅頭と茶を出して、瑞枝が帰ってくるまでの留守を頼む。
――鬼か。
物も動物も、長い月日が経てば化ける。それは間違いない。ただ、その殆どは人など襲わない。巷に溢れる怪談話の多くは人が作ったもの。しかし根拠がないわけではない。人を襲う物の怪はいる。ひとつは単純に、人に恨みがあるもの。そして、もうひとつ。人の肉を食らったことがあるもの。
――あの心中の二人には、その跡があった。
鬼、という言い方は違うといえ、金太郎の言い分は正しかろう。例え、姿を見ることができる者が稀であろうとも。
すっかり乾いた地面は、歩くたびに土煙が起こる。遠くで冷水売りの声がする。
月は細く、明日は新月。灯りを消した部屋に影はできない。では、開け放した窓から入ってきた闇は。
足音もなく、息の乱れもなく。黄色く光る目。捉えているのは部屋の隅、かい巻きに包まった――。
「そこには何もいないぞ」
後ろからかけられた声に、驚く風もなく、ゆっくりと振り向いた。首に巻かれた赤い真田紐。闇太郎、と名づけられたそれは、確かに猫の姿。
――――何故、止める
掠れた声は女のもの。まだ人には化けられない、新参者。
「人が襲われるのをを黙って眺めている者はおるまい」
――――主らがそうさせたのであろう
あの遺体がなければ。人の肉を食わなければ。物の怪となっても、時折人に悪戯をする程度で何事もなく過ごせた。そう、人を襲う物の怪は人が作り出したもの。しかし、それを見逃す理由にする事はできない。
「このまま戻って、人を襲わないと言うのであれば、見逃そう」
――――何を言う
闇と同化したように見えた次の瞬間、闇太郎は床を蹴った。一重で避け、向かい合う。
同じ気配。あの時、川で聞いた音は、こやつだったのだ。移された遺体を捜し、その全てを一人で平らげたのなら、今後も人を襲いつづける。味を覚えた物の怪を御することはできない。
――――人に、何が出来る
本郷を正面に見据え、背中を丸める。本郷は杖を軽く握りなおす。
ただの人が物の怪に出来ることなどありはしない。修行を積んだ坊主ならまだしも、呪術を持たぬ人が刃物できりかかったとしても、傷すら負わすことは出来ない。
それは、正しい。
闇が動いたのと、紅の光が走ったのは、ほぼ同時。跳ね返されるよう降り立った闇太郎には、猫であった時には見られなかった表情があった。
――――主は
物は新月が近くなると化ける。それらを見つけるのは、あやだ。決まりを教えるのも彼女。どれだけ恐ろしい化け物になろうとも、神の名を持つ者には適わない。その風神はここしばらく姿を見せない。だから、こやつは知らないのだ。
目から光が消えていく。変わりに、そこには紅の一筋が映る。
――――妖刀
呪術の篭っている最たるもの。人が使えば自身に返る。本郷がこれを操れるのは、ゆめみの分身だからという、それだけのこと。紅に光る刃は、彼らの住まう土地への鍵。子供の頃、桃源郷に溺れなかった褒美に与えられ、そして科せられたもの。
――――花王の、刀か
その言葉を最後に、闇は消えた。そこにあるのは、いつもの、暗い部屋。
刀を収める。紅い光も消え、それは手になじんだ杖に戻る。障子を開ける。星が明るかった。
――――旦那ぁ
屋根瓦が一枚、立ち上がる。月が細くなるほど、彼らは動くことが出来る。
――――気を落としちゃいけませんぜ
「別に落としてなどない」
人に害なす物の怪を放ってはおけない。対する手段を有しているから、そうしているだけだ。葬らずとも別の手段がないものかと思うこともあるが、それについて特に強い感情を持っているわけではない。ただ、今は。
――七海に、闇太郎がいなくなった言い訳を考えなければいけない。