暗闇の中に光が舞う。
そこに浮かび上がるのは、雄大に花を咲かせる桜の大木。その花弁ひとつひとつが淡い光を纏い、暗闇を流れて行く。
「ゆめみ」
呼びかけに、樹の陰から一人の女が姿を見せる。大仰な髪と飾り。黒い着物に流れる桜。肌は舞い落ちる花のよう白く透き通っている。艶やかさのなかにも清楚さが見え隠れするのは、桜そのもの。
――――浮かない顔だこと
彼女がそう言うのであれば、自分はそういう表情なのだろう。今まで彼女に隠し通せたことはない。
「あやはいるか」
――――まぁ、他の女のことで気に病んでいるとは、つれないこと
言葉とは裏腹に、軽やかに笑い、それに応じてか木が揺れ、枝の間からひょっこりと童が顔を出す。姿は数馬より少し下ぐらい。肩の上には光るいたちのような獣。
――――あやなら、奥でいじけてるよ。出てきやしない。何かやったのかい?
「やった、という事ではないのだが」
――――あの子の癇癪は今に始まったことではないがのう
しゃがれた声は側を流れる川から。
――――話してみい
別に話す事でもない。その日、あやの機嫌は良く、そして本郷の家に長居していた。それで久しぶりに整理していた書物が散乱した。彼女はその中の一枚の絵を見て、本郷に説明を求め、今度は癪を起こして消えてしまった。それが十日前のこと。
――――絵ってどんな
本郷は懐からその絵を取り出す。有名なものだ。覗きこんだ童は、ひっくり返って笑った。腹の上で獣が跳ねる。
――――そりゃぁ、そんな鬼みたいなの、あやは嫌がるよ。おいらはこっちの方がいいけどね
ざばぁっと水の音がし、川から竜に似た生物が首をもたげる。
――――ほう。先代じゃの
「爺は知っているのか」
――――知っておる。のう、ゆめみ
――――もちろんですとも。先代の、風神
ゆめみは懐かしそうに風神雷神図を手にし、そして微笑んだ。
妖怪変化、魑魅魍魎。人はそう言う。ここは彼らの住処。人の身で、自分の意思でここに来る事ができるのは、本郷だけだろう。
――――しかしこの季節、風が吹かないのは人には辛かろう
――――しんどいなら巽もゆっくりしてけばいいじゃん
そら――童を本郷はそう呼ぶ――は、すでにそのつもりなのか、碁盤を持ち出してきた。昔、本郷が持ってきたものだ。
「そうはいかない。こっちはこっちで面倒事がある」
江戸の町とは違い、ここは暑くもなく寒くもない。神の、精霊の住まう地。ここに迷い込んだ者は、居心地の良さに帰るべき場所を忘れる。それが神隠し。二十年前までは、江戸の至るところに、ここに通じる道があった。五つ六つだった子供の自分が、よく帰れたものだと、今でも思う。
「あやがいじけたままなら、ひとまず帰る」
――――本当に、つれないこと
――――あやには甘いよなぁ、巽
甘いのではなく、未だにどうしていいのか分からないだけだ。風神の名を持ち、数百年を生きているあやは、姿も中身も三つ四つの幼女。人と神の生きる長さは違うといえ、中身ぐらいは早くに成長してもらいたいところだが、そう都合良くいくわけでもない。
――――あやがいないなら、人の世は巽が注意を払わなければならんしのう
爺の助け舟は逆効果だった。
――――なら、おいらが
――――もしくは、ひとつひっぱたいておけば、事の重要さがわかるでしょう
そんなことをされれば津波が起こる。昨年末の嵐の二の舞は勘弁してもらいたい。そらの助けはありがたいかもしれないが、雨が続くのも困りものだ。
諦めて、木の根元に腰掛ける。
「――夜が明ける前には戻るぞ」
二人は――人の姿を纏っているのでこう呼ぶが――してやったりと笑う。神は人よりも人らしく、我侭だ。彼らがその気になれば、本郷をここに閉じ込める事もできよう。それをしないのは――。
そらが碁石を抱えてくる。
「たまには爺ともやってみたいものだが」
――――手が届かんよ
――――爺も人の姿になれば
――――わしゃ、この姿が気に入っとるんじゃ
――――こないだまで河童がいいとか言ってたのに
彼らの姿は全てが仮のもの。それは互いにどうでもいいこと。風もないのに舞い落ちる花びら。花が尽きたことはない。それは、ゆめみが生きているから。
魅入り、魅入られ二十年。本郷は二つの世界で生きてきた。