次の日、いつもなら昼近くまで寝ている七海は、珍しく町木戸が開くと同時に外へ出て行った。
「何かあったんですか?」
木戸番の右近がきょとんとして診療所に顔を覗かせた。答える前にまた騒がしくなり、今度は究が走り去って行く。
「元気ですねぇ、あの子も」
裏店から瑞枝の声がし、続けて姿を見せる。
「こら――あら、おはようございます」
「どうかしましたか?」
「いえ、もうあの子ったら、何もなければ遅くまで寝ているのに、何かあるとご飯も食べずに飛び出して行くものですから」
七海と似た者同士。究の場合、今ならあの心中の件ということか。
「おや、おはようございます。何かあったんで?」
木戸の前で三人、立ち話をしていると、納豆売りがやって来た。
「いえ、七海さんがもう出て行ったから早いなぁと」
「不吉なことでも起きなきゃいいんですけどね。そいじゃ、仕事させてもらいますわ」
納豆屋が木戸をくぐると、いつものように流が駆け足でやってきた。彼が京都から江戸にやって来たのは二月前。今は七海がかつて住んでいた裏店で、父親と二人で暮らしている。
「おはようございます――あれ、先生も瑞枝さんも、十四郎さん待ちでしたか」
「そういうわけでは。あぁでも、うちも納豆は欲しいわ――究はどうするのかしら」
「そういえば昨晩、家に来て、簪を落としたと落胆していましたよ。もう出かけたのなら、見つかったか――」
簪はまだ七海が持っている。究の立ち直りの早さは感心を通り越して呆れるほど。また何か探しに行ったのだろう。
納豆屋と二人が裏店に消え、本郷も診療所へ入る。外で右近が誰に向かってでもなく呟いた。
「それにしても今日も良い天気ですねぇ」
青い空。雲も風もない。
七海は昼前に戻ってきた。顔が赤いのはこの暑さだけではないようだった。
「おい、聞いたか?」
「聞いた」
「そりゃそうか。あいつが話さないわけがない」
氷のことではない。欠月のことは人に知られてはいけない。七海が言ったのは、今朝から話題になっているもの。この診療所に最初に話を持ってきたのは究と金太郎だった。
「ありゃぁ、どう考えても人のなせる業じゃねぇ、化け物ですよ」
事あればそう言う金太郎だったが、今回は究も同意した。
「だって、一晩で人が骨だけになるなんて、ありえます?」
それからはもう、道行く人の話はどれも同じ。
「いや、驚いたね、あれは。晒し者にされてたあの二体、骨が着物着てるって笑い話にもなりはしないけどさ」
「見たのか」
「そりゃ見たさ。あまりにも騒ぎが大きくなったんで、上が出てきたぜ。犬猫の仕業だって、子供すら騙せない理由つけてたけど、あんなの人にだって無理だ。やっぱり――あれ?」
窓から身を乗り出していた七海は、一階の屋根に目を留めた。
「何だお前、久しぶりだなぁ」
屋根にいる知り合いなど聞いた事もないが、問う前に窓から顔を出したのは黒い猫。首に赤い真田紐をつけ、何かをねだる様に鳴く。
「もう少し早ければ魚屋が来てたんだけどな――痛いって。俺をかじっても美味しかねぇよ」
猫を部屋に入れて、自分は梯子へ向かう。
「おとなしく待ってろよ」
「どこへ行く」
「だから、魚屋」
七海の猫好きは今に始まったことではない。先の話の続きなど忘れたかのよう、表へ出て行った。
言いたいことは分かるのだ。やはり物の怪の、鬼の仕業だと。その後に、お前は信じないだろうけどな、と決まって言う。その手の話に本郷が全く興味を示さないからだ。物の怪は誰にでも見られるわけではない。だからこそ、そういう話は広まる。
部屋の隅で黒猫が鳴いた。
「さっきは瓦版で終わったけど」
猫は魚を咥えて出て行った。昼飯を終えた頃に、究が刷りたての瓦版を持ってきた。彼の瓦版には絵はない。それでも内容は充分に異様で、七海が出歩いて手に入れた別の瓦版では当たり前のように鬼が描かれていた。
「氷が置いてあった旅篭に行ってみたんだよ」
ただ扇ぐのも飽きたのか、団扇をくるくると回し、話を続ける。
「蔵は宿の裏庭にある。裏庭は広かった。氷が入っていたのと同じ作りの蔵が三つと、かまど用だろう、薪と藁の入った蔵。問題の蔵の中を覗いても藁が落ちていたぐらいで、あとは空っぽだ。そこで気になるのが、いつ盗まれたのか」
荷は大きい。蔵の後ろは塀が続く。宿のある通りは人が絶えない。昼はまずないとはいえ、ここしばらくは暑さもあって、夜にそぞろ歩きする連中も多かった。花街に向かう連中も通る道。そんな中、見なれない荷は目立つ。
「ただ、氷は割ることも出来る。分けて運ぶのは可能だ。その場合は、時間がかかる」
「それに音も」
「そう。通りの奴らは騒いでるから気にはならないだろうけど、旅篭の方は静かだ。ただ、確かに手薄ではあるな。何せ、俺がかなりの時間うろうろしていても、気づかれなかったぐらいだし――気づかれるような真似はしないけど――」
じっと手の甲を見る。
「どうした」
「いや、闇太郎にかじられたところが」
「闇太郎?」
「さっきの猫。黒いだろ。俺が光太郎だから、闇太郎。気のせいか、痛むんだよな」
「見せてみろ」
「別に、平気だよ」
「変な病気にかかっていたら、敵わん」
傷は小さい。それで痛むのであれば、猫が何かの病気か――。
「まぁ、あいつも結構な年のばぁさんだしな」
「――雌なのか」
「そうだよ」
猫に同情しつつ、黙って薬を塗る。
「ほい、どうも――やっぱり朝が早いと辛いな」
確かめるよう手を動かしていた七海は、そう言うなり、ごろんと横になり、すぐに小さく寝息を立てる。この暑い中、日差しを気にせず寝られることに関しては大した奴だ。そう思いながら、本郷は往診の準備を始めた。