TOPcreation > 欠月 (相関図)



遠くに揺れるは蜃気楼 近くに揺れるは鈴の音


 ちりんちりん。
「止めないか」
 日は真上、外は髪を撫でる風もないというのに鳴り続けていた風鈴の音が、その一言でぴたりと止む。
「せめて耳だけでも涼しくしようと」
「煩い」
「自然相手にそんなわがままが」
「お前はいつから風になった」
「俺ァ、足の速さじゃ風には負けないぜ」
 肩越しに目をやれば、窓辺に寄りかかり団扇を手にした七海の姿。着物は普段からだらしないが、その表情といえば。本郷の視線を読み取ったか、言い訳が出た。
「仕方ねーだろ。暑いんだからよ」
「夏だからな」
「煎餅も湿気るし、饅頭も喉を通らないし」
「冷水は」
「買いに出るのも嫌だ」
「川に行ったらどうだ」
 少なくとも、部屋に二人でいるよりは涼しかろう。そもそも、七海は暑ければしょっちゅう川に行っていたではないか。
「お前、それ本気か?まだ三日前だぜ?」
 何が、とは言わないし聞かない。
「人の憩いの場を台無しにしやがって」
 心中する輩に、そのような配慮を求める方がおかしい。遺体は早々に別の場所へ移され晒し者になっているはずだが、この暑さ、野次馬も来ないだろう。それは川も同じで、数日前のことでは、気持ちのいいものではない。
「なら、湯屋にでも行ってこい」
「湯屋から出たら同じだろ」
 二階は日に近い。より暑くもなるというもの。ただ、七海の言う通り、この十日は本郷でも辟易するほど暑い。風が全く吹かないのだ。
「風神はよほど機嫌がいいんだろうな」
「何故」
「機嫌が悪けりゃ嵐になるだろ。昨年末みたいに」
 そういえばあの嵐は酷かった。
「暑くてもあいつらは元気だな」
 外を眺めていた七海の声に答えるよう、通りが騒がしくなり、それはそのまま一階の診療所にやって来た。
「先生、七海さん、いますかー」
「いますよー」
 返事だけして動く気のない七海に代わり、本郷は梯子を下りる。顔を見るまでもない、いたのは裏店の究とその友人。
「何かあったのか」
「例の心中事件なんですけどね」
「お前がまだ手を焼いているとは、珍しいな」
 顔だけ覗かせて、七海が出張る。
「身元が分かるようなものがないんですよ。所持金もないし」
「心中するのに金がいるかよ。むしろ、ないから心中じゃねぇのか。でなきゃ岡引が盗んだか」
「でも、この簪は結構高そうですし、手がかりになりそうなんですけど、どこの店も扱ってなくて」
 袂から取り出したのは、紅い簪。心中の片割れの髪に飾られていた物。
「どこから持ってきた」
「あ、えと、これは川底に残されてて」
 本郷にじろりと睨まれ、究は簪を後ろ手に、一歩下がる。
「その前に七海さん、そっから下りちゃくれませんかね。化け物みたいなんですけど」
 金太郎が、心なしか沈んだ声で頼む。魑魅魍魎の類は彼のもっとも苦手とするものではあるが、彼でなくとも七海の逆さ頭は不気味に見える。
「その話で盛り上がる前に、饅頭屋からお二人にって」
 数馬が小さな包みを取り出した。受け取ったのは、二階から飛び降りてきた七海。
「新作らしいですよ」
「紫乃からか」
「はい」
「じゃぁ、俺も」
 伸ばした金太郎の手を、数馬は扇子でぴしゃりと叩く。
「だーめ。先生と七海さんにって渡されたやつだし、その包みじゃぁ二つしかないし」
「あそこがそんなけちなわけ、ねーだろ」
「うん。でも金太郎が来る前に食べちゃったよ」
「ちくしょーっ!朝っぱらから黒猫が二匹も横切るから何かあるとは思ったけど、そーゆーことかぁっ」
「…お前って気楽でいいなぁ」
「七海さんに言われたかありません」
 そんなやりとりを見て笑っていた恵は、そう言えば、と究に尋ねる。
「源さんに何か頼まれていなかった?」
「あ、そうだ。源さんの長屋の子供が腹痛で先生を呼んでくれって」
「それを先に言え」
 世間話の場となるのも少なくはないが、本来、診療所は病人や怪我人が来る場所。本郷は木箱を片手に、杖をもう片手に取る。賊に足を撃たれたのは半年も前。それ以来、この六尺の杖は常に側にある。
「その前に心中の」
「七海に聞け」
「じゃぁ、先生の分の饅頭は俺が」
 伸ばした金太郎の手を、七海が扇子でぴしゃりと叩く。
「何言ってんのお前。本郷のものは俺のもの、ってのが世の理だろうが」
「僕の扇子…」
 冷水売りの声が遠ざかる。本郷は白く霞む通りに出た。


 診療先の長屋は川の近く。ここでも出る話は心中ばかり。しかし、究と違い関心は心中そのものではなく。
「馬鹿な子で、昨日の夕暮れ、川に入ったんですよ。それから痛み出して。あの二人の霊の仕業じゃないでしょうか」
「河童に見つかったのかも」
「河童も死人につられて来るものかしら」
 こんな按配である。ただの食中りだと薬を与えて、長屋を後にする。横道に入るとすぐに川だ。心中の二人が見つかった場所に近い。妙な胸騒ぎに覗いて見ても、水の流れしか聞こえない。ふいに、草がゆれた。一瞬、黒いものが視界を掠めた。その気配に眉をひそめたが、丈の長い草で姿を見つけられないまま、それは遠ざかって行った。
 診療所に戻ると、究達は消えて、留守預かりの瑞枝だけが一人、本を読んでいた。
「いつも騒がしくてすみませんねぇ」
 息子の究が何かにつけて診療所へ情報を仕入れにやってくることを、瑞枝は常日頃から注意しているのだが、本人は聞く耳を持たない。医者としてあちらこちらを回っている本郷と、何をしているのか誰も知らないが顔は広い七海。究一人で情報をかき集めるよりも、ここに来るほうが理に適ってはいる。特に今回は。
「誰か来ましたか」
「えぇ。隣町から」
 八丁堀にはひしめくほどいるといわれる医者も、この辺りでは本郷だけ。さらに内科外科はもとより、蘭方学を学んだものは、そういない。故に、往診先はかなり広きにわたり、一旦診療所を離れると捕まえるのが難しい。七海もいるのかいないのか分からない中、瑞枝の存在は大きい。
「赤ん坊が、ねずみか何かに足をかじられたそうなんですよ。歯型がついたくらいですんだらしいですけど、ずっと泣き止まないみたいで」
「ねずみ」
「ねずみかどうかは分かりませんけれど、何かの動物だと」
 この時期、食べるものはその辺りにあるだろうに。名前を聞いて、再度出る。
「おぅい、本郷」
 上から声がかかる。二階の窓から七海が身を乗り出していた。
「水饅頭、取ってあるからなー。早く帰ってこいよー」




TOPcreation > 欠月 (相関図)