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「どこ行くんだよ」
 夕餉を済ませ、何やら支度を始める本郷に、七海は声をかけた。湯屋へいく様ではない。
「俺も行っていいか?」
「――勝手にしろ」
 返ってきたのは、そんな答えだった。昼間の紫乃の発言。女のところへでも行くのかと思ったが。
 提灯を手に、もう片方にはいつもの杖と。
「酒?飲みに行くのか」
「いや」
 番太郎の右近はいなかった。いくら彼といえども、この時間に留守にする、というのはおかしい。しかし、本郷は気にも留めず町を出た。昨日も辿った道を歩く。橋は焼け落ちていた。いくつか角を曲がる。月は明るく、提灯はいらない気さえする。その明かりに照らされた道。七海は眉をひそめる。
 ――ここは、どこだ。
 江戸の町は知り尽くしているという自負はある。この道も知っている――はずだ。しかし、こんな風景は見たことがない。
「…江戸か、ここは」
「あぁ」
「嘘つけ」
「どのくらい歩いたかも、わからんか」
 時間的にも江戸からは出ていない。それは分かる。だが、これはまさに山道ではないか。急な勾配と草木に覆われ、露出した岩が立ちふさがり、少なくとも人の歩く道ではない。
「こんな険しいところに何用だ」
「子供の頃、家へ帰るのによく通った道だ」
「お前、どこに住んでたんだよ」
「普通の村だったがな」
 ふと、その背中が怪しく思えてきた。今までの胡散臭さとは違う。物の怪ではなかろうかという、一笑に付すような。ただ、『怪しい』というのとは少し違う気もする。
「俺がいなければ、通れない道だ」
「お前…」
「案ずるな。俺は人間だ。それに、行ったきりの道でもない」
 心の奥を見透かされたようで。
「…ま、お前が俺を騙して得することもねぇだろうよ」
 無の心境とはこういうものか。いや違うな。自棄というものか。そんな事を考えながら、不安定な足場を付いて行く。


「まだか」
「そろそろだ」
 時間にすればおそらく半刻程度。つい先ほどまであんなに明るかった月の光は徐々に消え、暗闇は深くなる。雲が出ているわけでもなく、今宵は満月を少し欠いた程度なのに。

 突如、視界が開けた。

 月の光も届かぬ谷間。
 例えるなら花魁。艶やかに、気高く。自身で輝く力を持つ者。

「子供の頃は、散る事無く年中咲いているものだと思っていた」

 本郷の声が、遠くから聞こえた気がした。

 それは、見事なまでの吉野草。この夏の盛りに、咲くものではない。何より、その純白の輝きは。

「何だよ、これ…」

 辛うじて出した声は、続かなかった。

  ――巽が人を連れてきたよ。
 幼女の声。だが、それは空から。
  ――珍しいこともあるもんだ。
 野太い声は、岩のほう。
  ――残念ながら、男でさぁ。
 数馬と同じぐらいの童の声は、草むらの中。
  ――女を連れてきてみろ。
 しゃがれた爺やの声は川面から。
  ――姐さんが怒り狂うだろうよ。
 若い男の声はどこだろう。

「ゆめみ」

 そんな声を、気にする風でもなく、だが無視する風でもなく、本郷は声をかけた。桜の木に。

 若い女。それは突然現れた。艶やかに気高く。そう、この樹を見たときに受けた印象そのものの女。ゆめみ、とはまた変わった名――。
「ゆめみ…ぐさ…」
 七海の掠れた声に、女は、優雅に笑みを浮かべた。夢見草。
「そうだ」
 本郷が根元へ寄れば、女が沿うように立ち上がる。白い肌とほのかに色づいた頬。すらりとした長身。吉原でもこれだけいい女は、そういない。だが、これは――。
「言ったろう。物の怪は字の如く、物が化けたもの」
  ――あんなに驚いて。お前様も、人が悪い
  ――姐さんのが移ったんでさぁ
  ――これで巽が連れてきたのが女だったら
  ――嫉妬で真っ赤になった華が見れただろうにねぇ
  ――次に、期待しよかのぅ
「怪我は」
 そんな応酬に、本郷は少し笑みを浮かべ、『ゆめみ』に尋ねる。袖をまくり、見せた腕に、一筋の紅い糸。大事にはならないだろう。
 空を見上げる。闇さえ覆う白い花弁。大体の見当をつけて、杖を渡し、下駄を脱ぐ。ぽかんとしたままの七海に、待っていろ、と声をかけて、幹をひと蹴り。


 本郷が消えた辺りを凝視したまま立ち尽くす。髪を揺らす風は幼女の軽やかな笑い声。草露が跳ねれば、童の元気な嬌声が。樹を見れば自然に視界に入る『夢見草』。手にしている杖は、彼女と一体になりつつある。
 ――御神刀。いや、妖刀。神か妖しかの違いだけ。あれは彼女そのものか、分身か。ならば本郷にしか抜けぬというのも道理。だが何故、彼がそれを持ち得るのか。
 彼女の慈しむような視線の先には。
 ――あぁ、そうか。
 妖しに魅入られた子供は家を忘れる。だが、子供に魅入られた妖しは。
  ――死なせることなどあるまいて
  ――もともと、人を食らうものでもなく
  ――童が奥深く、この谷のさらに谷まで行ってしまい
  ――戻って来れなくなるのが、神隠し
  ――あの子は聡明だったから
  ――姐さんが気に入って早、幾年
  ――この道は、巽にしか通れなくなった
 そう。自分が子供の頃は、神隠しは頻繁に起こった。隠し婆だのがあちらこちらで噂され。それがぱたりと消えたのも、子供の頃。


「七海」
 いつの間に降りてきたのか、本郷が傍にいた。持っていた酒瓶を渡される。軽い。
「…お前、木の上で飲んできたのか」
「まさか。怪我に」
「…桜の樹に、酒」
「初めて会ったときも怪我をしていたな」
  ――その時も、同じように
 もしかして花魁のような妖艶さは、こいつのせいか。桜といえば、清楚という代名詞。
「残りは、飲んでいい」
「…そりゃどうも」
 現実についていっているのか諦めたのか。七海は口をつける
「うわ。諸白。なんて贅沢な」
 残りを飲み干す。
「なぁ、結局ここは何なんだ?」
「普段は隠れている地の一つに過ぎない」
「こんな場所があちらこちらにあるのか」
「あぁ。だが、ここは入口が町中にあるから」
「それがさっきの」
「特に子供が見つけてしまうようだな。俺も、そうだったが」
「何で、見つけられるんだ」
「月の力が弱まれば現れる。そうだな、半月あたりが、一番道が現れやすい。当時は、月の力が全てだった」
 全く理解不能な会話を続けているという自覚はあるが、何をどうすれば通常の流れに戻るのかが分からなくて。
「それが何で、今はお前だけが通れるように」
「俺が行くと、あいつらが」
あいつら、とは、つまり姿なき声の。
 ――巽が来て、道を開けないと姐さんが怒るし
 ――たまに、外の事も知りたいしな
 ――今でも満月と新月には叶わないが
 ――それ以外だったら、道を繋ぐも繋がないも俺らの自由
  ――二十年前までは、あゆがさぼっていたからさ
  ――違うよ。まだ赤子だったから
  ――今でも十分、赤子じゃろうに
  ――爺は黙ってよ
「あの頃は、月の力に勝てなかったから」
 月の持つ魔力。人間にはあまり意味の成さない、言伝え。
「生まれたばかりでは、いくら物の怪といえ何の力も持たない」
 物の怪も、生まれるとか、そういう表現を用いるのか。九尾の狐のように、千年を境に、別のものになるのか。
「それで神隠しは」
「あの谷底。あそこには、物の怪ではない、人間の念が渦巻いている」
 黒く蟠っている、何か。本郷の中で、物の怪の定義が『物』が化けたものであるなら、あれは『人』が化けたものになるのだろうか。
「子供は、自分が持っていないものに興味を示すからな」
 あそこへ行ってしまったら最後、戻す術はない。人間の欲望はそのまま冥府へ繋がっている。
「…俺ぁ、この目で見ても、まだ信じられない」
 普段、そういう存在を口にする人間ほど、目の当たりにすれば否む傾向にある。
「信じろとは言わない」
 樹の根元に腰を下ろした。途端に、女は消える――本来の姿へ戻ったというべきか。
「俺は少し寝る。適当に」
「適当に…一体どうしろと」
「お前、泳ぎは河童並と言っていたな」
 ――ほう
 しゃがれた声の正体を察した七海は、ちぎれんばかりに、首を横に振る。
 そんな様子を見て、本郷は瞳を閉じた。いつもよりも穏やかな顔。花は絶えることなく、そっと避けるかのように舞い散る。


 物の怪を信じていない訳ではなかった。知っていたのだ。彼らの存在を。彼らに『魅入られた人間』を。なるほど、彼らはそう広範囲を動けるというのではなさそうで。むしろ、本来の『物』の場所から動けないといった方が正しそうで。信じる信じないは別にしろ、こう目の当たりにすれば、物の怪の仕業で人が倒れると言うのも、馬鹿馬鹿しい話。そしてこの地にやって来て戻れなくなるのは、また別の話。
 幼女は二十年前、と言った。つまり、本郷はここに二十年は通っている、という事。そんな長い間、彼らと交わっていた男は、果たして人と言えるのか。
 ――そうだ。『怪しい』のではない。『妖しい』のだ。普通の人間には、持ちえぬもの。もしや、ここの住人達と同じく『化けた』存在では。
「ま、いいか」
 今までと同じく、こいつの飯が食えれば、それでいい。
 白い花びらを布団代わりに、七海は寝転がった。甘い香りと、柔らかな感触に、意識は急激に、しかし穏やかに遠のいていった。



 目を開けると夏の日差しが容赦なく照りつけていた。二階からでも通りの喧騒は手に取るように分かる。昨晩はいつの間に戻ったのか。それともあれは夢だったのか。夢であるほうが望ましい気もする。
 診療所に降りれば、ちょうど本郷が出かけるところ。木箱を持っているということは、往診か。
「飯は?」
「前々から言っているが、ここで飯を食いたければ、七つ半より前に起きて来い」
 朝の挨拶代わりの、いつもの会話。
「起きたら食うって分かっているんだから、残してくれてもいいだろ」
「そんなに文句を言うなら、さっさとかまどを直せ」
「あ、おい、勝手に話を終わらすな!」
 七海の抗議も空しく、本郷は表で待っていた男――患者の家族だろう――と共に歩いていく。あの杖はない。
 そしていつものように瑞枝がやってきて、右近が独楽代を請求しに来て、金太郎が壊した戸口の修理をしにやってくる。あの夜に何があったのかと、まだしつこく聞いてくる究を適当にからかって、裏長屋の敦に魚を捕りに行こうと誘いに来た数馬に金を貸してくれと無駄な頼みをして。
 そう、いつもの通りだ。やはりあれは、夢だったのだ。
 一つ違うことといえば、裏長屋の連中とすっかり打ち解けた流の存在。昨日よりさらに明るい表情は、父親の事。小石川か、空きがなければ七海の家に移すと。
「え?俺の家?」
「七海さんが使っていいと言っていたと、先生にお伝えしたら、そう返ってきたんです」
 本から目を離し、瑞枝が説明をする。
「そりゃ、確かにそう言ったけど、それは」
「本当に、ありがとうございました」
 抗議の前に礼を言われ、七海は言葉に詰まった。
「…ま、いいけどさ」
 飯を食いに行って来る、と外に出る。空気は熱く、水売りが声を上げる。砂煙が立ち込め、日は真上。



目の前を、白い花びらがはらりと舞う。それは雪のように、すぐに消えた。







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