闇に浮かぶはひとりの女。
光の届かぬその場にいてもなお、大仰な型に整えられた漆黒の髪は美しく、幾つもの飾りが華を添える。着物は黒。こぼれるような枝垂れ桜が裾に広がり、紅の襦袢と色白の肌が鮮やかに、目をひきつける。
「ゆめみ」
名を呼べば、赤い唇が形のよい笑みを作る。
空が白け始める。朝餉を済ませたところで、玄関の戸が開く音。降りてみれば、昼間は診療所として使う場所で七海が倒れていた。
「寝るなら、家へ戻れ」
「ご無体な。俺がどんだけ頑張って夜回りしてたと思ってんの。木戸開けんのだって億劫なんだよ」
瓶覗の着物もだらしなく、疲労困憊だと全身で主張をする。知り合って二年とふた月。この男に、人の家の雨戸を力任せに開けるのは億劫じゃないのか、と言ったところで意味が無いことも重々承知だ。
「いいじゃねぇか。今日も忙しそうだしな。留守番代わりに」
先の言葉とは裏腹に、軽い足取りで階段を駆け上る。表が騒がしくなる。町は少しずつ動き始める。男がなにやら喚いて駆け込んできた。
「えぇ、そう、もう二年には。霧雨さんが助けてもらったとかで。あぁ、ここら一帯の大家さんですよ。そいで、あの表店を格安で。いえいえ、そりゃぁ私も最初は医者なんて思いませんでしたよ。剣術もかなりと聞きますけど。足?あぁ、あれは半年前にねぇ。鉄砲とやらで。ほら、死人が二人、傷を負ったのが五人も出た、あの盗人の仕業ですよ。本当、おっかない話で。命が無事でよござんしたけど。え?そう、独りですよ。少なくとも私が知ってる限りじゃぁ。入り浸っているのはいますけどね、残念ながら男で」
陽は真上を過ぎた辺り、欠伸を隠そうともせず降りてきた七海は、階段に腰を下した。
「お帰り」
呆れたことに、今時分まで寝ていたらしい。往診先での急患。戻れば数名の患者が待っていた。その相手は裏長屋の瑞枝が、七海は二階で惰眠をむさぼっていたとのこと。
「あの事件から半年は静かなもんだ」
空っぽのお櫃を恨めしげに睨み付けて、七海は、本郷の足を顎で指す。
「唐人の影も見えなくなったな」
江戸の夜に、胡乱な者達がうろつき始めたのは一年半前。同心達だけでは手が回らず、町はそれぞれ、数人一組で夜回りを始めた。そして半年前の事件。左足に二発の銃弾。師である真木が江戸見物に訪れていたのが幸いだった。それでもまだ、杖は必要な身。
賊は三名、身なりは普通の町人風。二人は捕らえた。しかし、逃した一人は。
「お前の、根拠があるんだかないんだかの発言で、善良な唐人まで雲隠れ」
「根拠はある。言葉が」
「捕らえた二人は自害するし」
「ただ」
「ん?」
「――いや」
ただの唐人にしては、という疑問は飲み込んだ。訝しげながらも、七海はそれ以上探ろうとはしなかった。
「飯でも食いに行ってくる。あぁ、晩飯、よろしく」
「お前の家のかまどは、いつになったら直るんだ」
「あいつ、直る気がないらしい」
手をひらひらと、七海は明るい表に出て行った。
「あぁ、そうだなぁ。もう二年近く。裏長屋の一番手前に。でもこの一年以上、先生のところで飯食ってるな。ほとんど居候で。や、何やってるのかは知らねぇ。棒手振りとかじゃねぇかと思ってるけど。俺たちと同じで、出かけたり出かけなかったり。ただ、町中で見かけたことはないんでさぁ。夜の商売?どうだかね。そういう雰囲気でもねぇし。一人もんだがよ。老若男女に受けはいいんだが、色恋沙汰はさっぱりで。やぁ、本人が、一向、興味ないみたいでな」
「新作?」
「えぇ。どうです?お贔屓ですから安くしておきますよ」
「嘘。俺の記憶じゃ、恵がまけてくれたことはない」
馴染みの団子の屋台で、恵と呼ばれた少女はくすりと笑う。二つに結った、珍しい淡い色をした髪の毛が揺れる。
「昨日は夜回りでしたの?」
すり胡麻をまぶした団子をひとつ。
「そ。ここしばらく怪しいのは見てないから、そろそろ解散かなと」
白豆餡の団子をひとつ。
「でも私、昨日、変な人を見ましたよ」
みたらしも、と差した指はそのまま、七海は顔を上げる。
「変な人?」
「えぇ。二人連れでしたけどね。唐人のようなそうでないような。もう一人は、編み笠かぶって。刀は二本差していましたけど、武士でもなさそうだし、旅人でもなさそうだし」
「ふぅん」
「あちらこちらの店を覗いていたけど、何を買うわけでも無し、全然楽しそうじゃないの。ものを見るというより、人を探している感じ。店の人が声をかければふいといなくなって」
彼女の記憶力は群を抜いている。見聞きしたものは一生忘れないと本人が言っているのは、あながち法螺でもなさそうで。
――唐人。
「ま、俺の知るところではないか。えーと、みたらし?」
「えぇ」
「じゃ、これで」
「毎度」
やはり、まけてはくれなかった。
木戸をくぐり、裏長屋へ出ると、女性が三人、立ち話をしていた。奥の井戸に行く様子もなく、出たところを偶々、というところか。七海の家の戸は閉まっているようだった。
「あら、先生。七海さんならまだ戻っていませんよ」
七海の家の向かい、長屋の一番手前に住んでいる瑞枝が、尋ねる前に答える。隣家の女性が続けた。
「うちの子供もですけどね」
「もうすぐ夕飯だというのに」
「こんなに遅くなるのは珍しいわね。迎えに行ったほうが良いわよ」
「こういうとき七海さんがいれば、便利なのにねぇ」
「さすがに、足を怪我している先生には頼めないもの」
頼めないもの、という台詞は、暗に頼んでいるということ。この時間に、どこの亭主も戻っていないと見える。昨日一昨日と、風が強い雨が酷いで誰も仕事に出かけていなかったから当たり前かもしれない。
「あ、うちのが戻ってきた。ちょうどいいわ、行かせましょう」
戻ってきた男は、そのまま回れ右を余儀なくされ、自分も戻る事にした。七海の所在は、本郷の家か彼自身の家にいなければ、誰も掴めたためしがない。
「あ、先生、先生。今日、納豆屋がきたんですよ。いいやつだったから、どうです?」
瑞枝が土間に入って持ってきたのは、器一杯の納豆。ありがたくいただいておく。男が木戸から叫ぶ。
「で、どこにいるんだぃ、子供は」
「さぁね。川じゃない?魚でも捕ってるんだろうよ」
「こんな夕暮れ時に、河童に見つかったらどうするつもりなんだか」
診療所の前に一人。見かけない顔だ。黒とは呼べない――濃い千草色の髪の毛に白い肌。見かけない、というよりも、見たら忘れないだろう。あどけなさが残るが、端整な顔立ちをしていた。
「何か?」
驚かしたつもりはなかったが、少年は、びくりと振り向いた。七海がいれば、気配がないからだと言われるところだが、何かに怯えて、気を張り詰めているようにも見える。
「あの――診てもらいたい者が」
中へ促す。少年の表情はそのまま、視線だけが納豆に注がれている気がしてならない。
「病か、怪我か」
「それが――」
しばらく言い淀んだ後、凛と顔を上げる。
「病、かもしれません。それよりも、物の怪が憑いたのかと」
「物の怪?」
訝しげな声に、少年は、至って真面目です、と答えた。
「父なのですが、何の反応も示さないのです。言葉も発せず、まるで心あらずで遠くの方を見てばかりで――気が触れたのかとも考えたのですが、それにしてはいささか不審で。畑違いかとは思ったのですが、医者に見せたほうがよいかと」
蘭方の接種が広まるまで、天然痘の治癒はまじないに近いものだった。他にも、原因不明の病には、やはり医師だ坊主だ関係なしに祈祷に走る者も多い。本郷はその効果を特に信じているわけではないが、診てみないことには判断しようもない。
「患者は家に?」
「江戸に来たばかりで。旅籠のほうに」
「一旦」
「あの」
立ち上がりかけた本郷を止めるように、少年が腰を浮かす。しかし、そのまま手を突いた。顔色が悪い。どうしたと問う前に、畳の上へ崩れ落ちた。
「先生。納豆、七海さんの分も――」
小鉢を手にした瑞枝が、入ってきた。
二階へ運んだ少年は瑞枝に頼み、本郷は一階の診療所で本を広げた。病か、単に気が触れたか。物の怪ということはあるまい。ひとつ、嫌な予感が過ぎる。この半年は静かだったが。
「ご免」
気配と声が同時に現れた。見れば、入り口に一人の男。編み笠を深くかぶり、黒い着物に二本の刀。侍、ではない。証拠は無いが彼の気配がそう言っている。そもそも、自分の背後を取る、という時点で、只者ではあるまい。
「何か」
「人を探しております。年は十五、名は天草」
「天草」
「天草流と」
あの少年だろうか。
「何か、特徴は」
男は笠をあげた。淀みない二つの瞳が、真正面から見据えている。
「千草色の髪」
頷くことは躊躇われた。理由は男の瞳。まっとうなものではない。あえて言うなら、獣の目。見慣れぬ深緑。澄んでいるからこそ持ちえる残忍さ。
「さぁ。見かけたら、連絡ぐらいはするが。名は?」
「犬塚」
そう名乗った男は、泊まっている旅籠を告げ、去っていった。
土間にきちんと並べられた草履に、気がついたか。
「申し訳ありません」
「いいんですよ。ここは診療所なんですから。ねぇ、先生」
「あぁ。しかし、二日間、何も食べていないとは。金がなかったのか」
「いえ…少し忙しくて…」
何のことは無い、少年は腹をすかせていただけだった。多少、疲れも出てはいたが、瑞枝が持ってきた納豆で人心地がついたのか、血色も良くなった。
「時に。犬塚という男を知っているか」
その問いに、少年は再び顔色を失う。
「来たのですか」
「あぁ。天草、という少年を探していた」
「――僕です」
「やはり」
「あの、何とお答えに?」
「知らんとは言っておいた。何者だ」
「僕もよくは知らないのですが」
瞳が何か迷うように動き、少年は腰を上げた。
「申し訳ありません。父のことは、明日か明後日に。また、お伺いいたします」
そう言って、階段を駆け下りてゆく。慌てて追えば、少年は戸口で振り返り、一礼をして、夕暮れの雑踏に消えた。
「…どうしたんでしょう?」
訊かれたところで、本郷も首をかしげることしか出来ない。
「ただいまー。あれ、瑞枝さん、来てたの?」
入れ違いのように、七海が戻ってきた。正確には、飯を食いに来た。
「えぇ…納豆を。先ほど、少年に全部食べられてしまいましたけど」
「少年?」
「千草色の髪をした」
「隠れ切支丹みたいな?あぁ、ここから出てきたのか」
見れば手には魚篭を持っている。
「どこにいたんだ」
「川で数馬たちと魚を捕っていた」
土産、と瑞枝に一匹。
「まぁ、ありがとうございます。それでは、また何かあれば」
「あぁ、どうも」
「編み笠かぶった黒い着物の怪しい男?」
かれこれ一年、向き合って取る食事が終わったところで、先の少年達の話になった。
「いや、そんなのは見かけなかったな」
ところでその男。七海はお新香を口の中に放り入れた。
「刀を二本差していたか?」
「見たのか」
「俺じゃねぇ。恵が」
「団子屋の」
「唐人のような輩と歩いているのを」
「唐人?」
「そう。彼女の言葉を借りるなら、唐人のようなそうでないような」
「他に特徴は」
「聞いてねぇ。気になるなら明日、自分で行きゃぁいいじゃねぇか」
ごろりと横になった七海は、笑いを含んで付け加えた。
「まさかお前を撃ったやつも、こんなに執念深いとは思わなかっただろうよ」
まだ半年。執念深い部類には入るまい。