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「今日はゆっくりとお休みを」
 朧影からかかる声は、優しく、母のような暖かみがある。それは常に安らぎを与え、時に警告を告げる。
「ただ、何やらもうひと悶着ありそうな」



 障子を通して柔らかくなった明かりに浮かぶのは、熟睡している顔。こうも改めて見るのは初めてではないだろうか。普段の厳つさ、先ほどまでの喧騒はどこへやら。
 小さく音を立てて鞘から抜いた刀。剣術は苦手。その言葉に嘘はない。

 今の自分に必要なのは、技ではなく、殺気。

 衝撃が襲ったのは、全身。目晦ましに投げつけられた掻巻越しに鳩尾へ、鋭い一撃。身体はそのまま吹っ飛び、背中から障子窓に叩きつけられる。木と紙が裂ける音は耳元で。
「っ!」
 息を整える前に、掻巻を払いのける。遮りなく入ってくる月明かりに、異様なまでに輝く白刃。
「何様だ」
「やっぱり」
 怒気をはらんで問いかける本郷に、七海は、呼吸は合わないものの、いつもの笑みを浮かべた。
「仕込み、だったか」
 本来、鞘を掴んでいる手にあるのは、いつもの杖。だが、少しばかり短い。前々からおかしいとは思っていた。杖を片時も手離さぬことに。家の中でもだ。寝るときでさえ、手の届くところに置いてある。ということは、よほど貴重なものか、何か曰くあり、知られたくないものだと踏んでの事。後者であれば、普通に考えて、刀。いくら上が目をつぶろうとも、町人に許されているのは脇差のみだ。
 蹴られたか殴られたかした腹が痛みだす。あの間合いから反撃できる身体能力は素晴らしいを通り越して、凄まじい。足の怪我が芝居だったのは、疑いない。だが。
 ――まいったな。
 読みを間違えた。仕込み杖というのは合っていた。しかし、本郷が手にしているのは脇差ほどの刃渡り。あの五尺の杖には短すぎる。なにより、その刀の柄は、杖の先――地についているほう。普段なら、手にしているほうが、そのまま柄になる。それを証明するように、刀を抜いてなお、杖を持つ片手は、鯉口を切る形。
 ――二刀かよ。
 剣術の達人、といわれる本郷相手に、自分が勝つ見込みはほとんどない。それが二刀流、となるとまず無理。しかしこちらから抜いた以上、穏やかに事が済むだろうか、と思案に暮れている所へ。
「なるほど」
 あの二人組と対峙した時にも聞いた言葉。だが、あの時の冷徹さはない。そして、本郷から殺気が消え、刀を鞘――杖――に戻した。犬塚ではないが、刀を抜いている相手に取る態度ではない。いくら剣に慣れていない輩であろうとも。
「欠月」
 一言。本来、耳にしてはいけない言葉に、七海は息を呑む。乱れた襟元に手をやる。湯屋には何度も一緒に行った。気づかれるはずなど――。
「安心しろ。見えてはいない」
「…てめぇ、鎌かけたのか!」
「その反応だけで十分だ」
「反応って!あのなぁ!」
 はたと止まる。
「って…?」
 その言葉を知っている、ということは。
 本郷は自分の鎖骨の左を指した。その場所。
「嘘だろ…」
 そんな呟きの後に襲ってきたのは、笑いと脱力感。思わずへたり込んで、刀を放り投げた。本郷はそれを拾い上げ、手入れをしていないなと、壁に立てかけた。
「俺が阿片密売組織の人間とでも思っていたのか」
「ご名答。てことは、お前は、俺の事を鉄砲の売買をやっている仲間だと思ってたんだな。数馬に、あの日の事を聞いていたのを見ると」
「今、抱えている事件はそれしかないからな」
 ――欠月。
 それは、一種の隠密とでも言おうか。与力、同心では知っている者はいない。町奉行と、縦ではなく横の関係に位置し、何の権力もない代わりに、彼らから何の制約も受けない。むしろ奉行個人から頼まれることも多い。基本は、町人の依頼を連城が承り、采配の手はずを整える。常職ではなく、依頼があった時のみの組織。もっとも人数は、片手で数える程度と聞いている。そう、本人達すら、仲間がいるのかいないのかも分からないのだ。理由がない限り、公示されることはなく、唯一の証は『白粉彫り』と呼ばれる彫物。たいがい、鎖骨の周辺に三日月のを施すが、湯屋に行ったぐらいで現れるものでもない。全員を知っているのは、元締めの連城と彫師だけだろう。
「先生も人が悪い」
 自分の仕事以外、手を出さないのが掟。お互いがお互いを胡散臭く思い、随分といらない気を回したものだ。
「俺は、結構優秀だと思ってたんだけどな。今回に関しては、相当馬鹿やってたみたいだ」


 壊れた障子窓を、ありあわせの紙で応急処置をして、灯りをつける。診療所へ降りるよりは、二階にいたほうが声は外に聞こえない。あの音で自身番あたりが様子を見に来るかと思ったが、その気配はなさそうだ。番太郎の右近は、喧嘩と解釈して寝てしまうだろう。
「何でお前、俺が鉄砲に関係あるって思ったの?」
「半年前に持ち込まれて以来、お前がここに泊まる頻度が高くなった。この家ならば、木戸を通ることなく外に出ることも不可能ではない。また、事件があった現場の近くにいながら、先の瓦版の記事に全く興味を示さなかった。そして、お前を探していると言った唐人の出現の頃合」
 瓦版と聞けば飛びつく人間が、何事かと訪ねることもしなかった。真っ先に思いつくのは、下手人、という可能性。
「ずっと追っていた男が撃たれる瞬間も見てたし。事実が分かっているのに読む瓦版ほど、つまらないものはない」
「撃ったのは、女か」
「あぁ。でも、それで、何で欠月まで話が飛ぶんだ?」
「燐」
「そりゃそうか」
 燐、というものを知っている人間は他にいるかもしれないが、今、この江戸でそれを手にする事が出来るのは一人だけ。その事を知っているのは『欠月』の人間だけのはず。あの青白い炎は、燐の最たる特徴だ。
「昼間、いなかったのは、鬼首殿の所へ行っていたからか」
「さすがに、知識もなしにあんなもん扱えねぇよ」
 鬼首独郎。燐を初め、西洋の技術の知識にも長けている男。普通に暮らしている人間から見れば全く意味を成さない道具、そして彫物は、彼の手によるものだ。住まいは、町からそう遠くないが人が寄り付かない廃寺の裏にある。寄り付かなくなった一因は、廃寺よりもむしろ、怪しげな光を発したり、色の付いた煙を吐き出したりしている彼の仕業。そんな所にいて、人目につくほうがおかしい。
「お前は」
「あん?」
「何故、俺が阿片と関係あると思っていた」
「胡散臭いと思ったのは、ほんの数日前だよ。あの雨の中、出かけるのも尋常じゃねぇが、この俺を撒くなんざ。ついでに、やたら『犯罪』としての薬に詳しすぎる」
 それに、と外に視線を投げる。
「金太郎が言っていただろ。女がなにやら返せと」
 ぽんと、畳を叩く。それは階下の。
「枝を隠すなら森の中。阿片を隠すなら薬の中」
「ふむ」
「でもさ。お前、いつからこの件追ってるんだ?俺が知った時にゃぁ、すでに担当者ありってなってたぜ?」
「一年前だな」
「長いな。俺も、そうだけど」
 普段であれば、ひと月、ふた月程度で終わらせるものだが、一年や半年ともなると。
「尻尾を掴んだのは、半年前。どうも、全国に散らばっているようだ。今回、あの少年の件に便乗して再び江戸に」
「なるほどね」
 組織犯罪は手がかかる。唐人も現れたとなると、さらに。それに、今、足を引き摺っているのは芝居だろうとも、撃たれたことは事実なのだ。全国を廻るのは無理。ただ、騒ぎが大きくなったために相手もしばらく息を潜めた。それが長引いた要因だろう。個人で動く『欠月』の唯一の弱点かもしれない。
「ところでお前、俺が『欠月』じゃなかったら、どうするつもりだったんだ」
「迷わず斬る」
「…いくらなんでも、切捨て御免は許されねぇだろ」
「盗人、ということであれば、許されるな」
 冗談を言っているようにも見えない。七海は、やはり刀を抜いたのはやりすぎだったと後悔した。
「第一、お前はどうなんだ」
「何が?」
「あの距離で、俺が避けられなかったら」
「まぁ、本郷だし、大丈夫かなと」
 何が大丈夫なのか。こいつの刀はそのうち竹光にでも替えておくべきだ。そんな本郷の思惑は他所に、話は『もう一つの刀』の方へ。
「その杖は、鬼首先生のものか?」
「いや」
「まぁ、仕込み杖を作れる職人はいくらでもいるしな。凄い出来だけど。間近で見ても」
 杖を手に取る。本郷は若干躊躇ったが、あえて取り返そうとはしなかった。
「刀なんて…ん?」
 指でなぞる。もう一回、丁寧に。
 刀。そうである以上、鞘と柄――刀身――に分かれる。その分かれ目が、ない。適当に引いてみても、分かれる気配は微塵もなかった。
「…すり替えた?」
 首を振って、七海の手から取り戻す。先のほうに手を添える。
 するりと、何の抵抗もなく、現れたのはあの白刃。
「…え?」
 何かのからくりか。それだったら気が付かないのも納得がいくが――。
「もう一方は」
「それは、見せられない。相手を斬るとき以外は」
「何だよ、その物騒な決まりは」
「約束だ」
 誰の、との質問には答えなかった。本郷にしか抜けぬ刀なら、本人が拒めばそれまでだ。気にかかることは山のようにあるものの、何より睡魔が襲ってくる。この数日、溜めに溜めた緊張が一気に抜けたからか。
「明日」
 放り投げられた掻巻を手繰り寄せ、七海はその場にもそもそと包まった。
「朝早く、寺子屋に行って、報告せねばな」
「まだ終わっていないのにか?」
 情報収集以外で寺子屋へ行くのは、最初と最後だけという決まり。報告は、全てが終わった時。
「もしかしたら、俺たちの手を離れるかもしれない」
「んー…?」
 届いたか届かなかったか。少なくとも理解はしてまい。すぐに寝入ってしまった七海を見て、本郷は燭台の灯を消した。



「は?奉行所?」
 時間柄、この寺子屋で子供の姿を見たことはない。そこに七海の声が響き渡った。

 朝早く、まだ半分寝ているような七海と共に訪ね、事情を話すと、連城は、意外そのものの顔でこう言った。
「え?知らなかったのか?」
 お互いが仲間であることに。
「…は?」
「いや、かれこれずうっと一緒にいるから、当の昔に知っていたのかと」
「だって俺は飯食いに行ってただけだし」
「特に追い出す必要がなかっただけですし」
「そうか、知らなかったのか。それは悪い事をした」
 にこやかな笑顔で謝られても。
「ということは、もう一人も知らないかな」
「え?いるの?」
 鳩が豆鉄砲食らったような顔の七海に、本郷は苦い顔で頷く。
「見当は付いていますが」
「…誰だよ」
「紫乃」
「ご名答」
「何で彼女が」
「彼女には以前から情報をもらっていたが、客の話だけであそこまで得られるとは思えない。それに今回、唐人の傷を口にしたのは彼女だけだ。他のものは面を被っているとしか」
「俺は今までのやりとりは知らねぇけど。今回に限って言えば、あいつらの仲間ということも考えられるじゃねぇか。あんだけ人の出入りが多いんだ。いつ接触していてもおかしくはない」
「そう言われるのは心外だわ」
「うおっ!!」
 背後から掛けられた声に、七海は飛び上がらんばかりに驚いた。紫乃は連城に挨拶をして、ちょうど円陣を組むように、ひとつ空いた席へ座った。
「むしろ、二人が知らなかったことの方が、意外だったけれど」
「お前は知っていたのか」
「えぇ。この事件が持ち込まれた時に。だから、ああも情報を教えてあげていたのに」
「…なんで俺たちには教えてくれなかったんですか?」
「や、どうもすっかり忘れていたようで」
『先生』
 二人の抗議に、連城は相も変わらず笑ったまま。外で『欠月』はもちろん、直接事件の話は厳禁。結局、連城が知らせなければ、懐疑で終わってしまう。
「つまり」
 気を取り直して、現状の整理を、との求めに、連城は頷いた。
「本郷が一年前から阿片の密売を追っていた。半年前は、唐人を軸としていた。あの時は、あと一歩のところで撃たれてしまったね」
「じゃ、あの盗人というのは」
 七海の問いに頷く。
「密売を行なっていた者達。どうやら、捕まったら自害するよう、暗示を掛けられていたようだ」
「暗示…」
 それは本郷が言っていた催眠術というものによるのだろうか。他人の生き死にまでも操るとは。
「それから半年間は鳴りを潜めていた。その間に、阿片の取引を仕切るのは犬塚という男に代わったのだろう。だから、今回、表に出てきた。そう考えて、いいだろうか」
「いえ、取引現場にはいませんでした。おそらく、あの時の女が」
「その女というのは、俺の時のと同じ奴か?」
「おそらく。診療所を襲ったのも、そうだろう」
 女から話を聞いた頭取である犬塚は、流と共に本郷――片足を引き摺っている男――も捜していたのか。診療所を訪ねた時は、そうとは知らなくとも。
「五日前の大雨、その取引は」
「ここに」
 診療所から持ってきた風呂敷を差し出す。ほどけば、中には白い粉。七海が手を伸ばす。
「これが、阿片」
 俺の当て推量は正解だったか。木を隠すなら森の中。
「密売自体は、阻止したものの」
「あの雨の中、相手もこちらも足場が危うくて、一人、川に」
 それが、瓦版の一人目の死人。連城は視線を七海に移す。
「ついで、あの四日前の強風の日。あれは完全な仲間割れ」
「あぁ。男が、鉄砲を横流ししたとかで。俺は二回、あいつが取引しているのを知っているが、どうもそのうち一回が」
「お前が殺しを目撃していたのを、あの唐人は知っていたということか」
「そうだろうな。で、口封じ」
 懐から取り出した紙には、その男を尾行して抑えた取引相手とその住処。一見すると、普通の町人の名が並ぶ。
「大変ね」
 いつのまにやら茶を入れていた紫乃が、他人事のように漏らす。むっとした七海に連城は苦笑して、茶を受け取った。
「紫乃は、情報収集が主な任務だからな」
「一人ですから、それはそれなりに大変ですけれど」
「えーと、つまり、流れはこうからこう?」
 七海は、紫乃、連城、そして自分および本郷を、順に指差す。紫乃が連城に伝えた情報を、彼が二人に伝える。時に連城を挟まない事があるとはいえ。
「それで、この件だが」
 口調を改め、連城は告げた。
「奉行所が、引き継ぐことになった」


「何でだよ?今まで、そんな事、なかっただろ?!」
 あまりのことに、連城に詰め寄った七海を、本郷が引き剥がす。
「事件が大きくなりすぎたのですね」
「そう」
「手に余る、ってこと?」
「七海」
 いつもの朗らかな笑みは消え、真摯な態度で連城は諭した。
「我々は、もっと町人の身近にいなければいけない。死人が出て、鉄砲が出回り、そして阿片。それらのいくつかは押収した。黒い着物の男と唐人、女と、目撃情報も相次いだ。ならばもう、奉行所に引き継いでも良いだろう」
 最後まで手掛けられないのは残念だろうけど。それでもまだ七海は憮然としたまま。紫乃が微笑み、口を開く。
「完全に隠れれば闇ゆえ見えず。完全に満ちれば光ゆえ見えず」
 欠月の由来。闇に隠れる者がいるように、光に隠れる者もいる。僅かな光でも真実を見つけ、僅かな闇でも真実を見過ごさない。全てを明るくすれば全てが見えるとは限らない。
「上の者達は、それが出来ないと思っておけ」
 続けられた本郷の言葉に、あぁ、こいつも悔しいんだな、と七海は、少しだけ気が休まった。
「本来なら、我々のような者はいないに越したことはないのだから」
 そう言って、連城は阿片の包みと、鉄砲を手に入れた町人の目録を、小さな箱に入れた。遠山奉行に渡すために。


「そういえば」
 これから仕事へ向かおうという人々に逆らい、三人は診療所へ戻る。
「あいつらが、罪人だとすれば、納豆少年とその父親は」
「いいかげん、名前を言ってやれ」
「大丈夫じゃないかしら。だって、その少年は逃げてきたのだから、例え仲間だったとしても過去のことになるでしょう」
「気になるのは」
 本郷が周囲を憚るように声を潜める。
「江戸城にいると言っていた少年の祖父が、一枚噛んでいるのではないかという事だ」
 犬塚と唐人は祖父の手紙を持って迎えに来た、と言っていた。つまり、直接か間接かは分からないが、あの二人は彼の家来という事。ならば以前から阿片や鉄砲の密売を行なっている事に気がつかないのも妙な話。もし祖父が絡んでいるとなると、遅かれ早かれこの件は手を離れただろう。欠月といえども、城にまで捜査の手を伸ばす事は許されていない。
「ということは、その少年が事実を知らなかったとして」
 片桐も、いくらか抑えた声で。
「むしろ仲間にするために呼びつけたのかしら」
「可能性はある。父親は、その事を知って、奉行所に届けるなり逃げようとしたのかもしれない」
 父親の人となりは分からないが、あの少年が、そう易々と仲間になるとも思えない。
「でもさ、そういう時は普通、殺されるんじゃ?」
「少年に対する切り札にするつもりだったのかもな」
「仲間になれば父親は無事に戻す、みたいな。三流だねぇ」
 七海は、呆れたようにため息をついた。
「それで、あれは治るのか?」
「まず薬が身体から抜けるのを待つ。薬で精神を弱らせて術をかけたのだろう。術自体はそう問題にすることもない」
「だから、あれは物の怪じゃ」
「違う」
「俺の中で物の怪ってことに決めてるから、それはいいとして。あいつ、今、どこでどうしてるんだ?」
「さぁ」
 随分と無責任な二人の会話に、紫乃は固まった。
「何、呑気なことを言っているのよ!」
「あいた!」
 後ろから後頭部をぺしと叩かれ、何するの、と口を尖らせる。
「追われているかもしれないでしょ!早く、探してらっしゃい」
「何で俺だけ…」
「先生は、怪我をしているもの」
「これは…」
「つべこべ言わずに、さっさとお行きなさい!」
 何で未だに杖を突いているのかと思ったが、もしやこういう事か。だが、紫乃に口答えしても勝てる見込みはなく、七海は走り出した。例え相手が呪いを信じていなくとも効果はあるはずだと、心の中で意味不明な呪詛の言葉を呟きながら。


 通り道の旅籠に寄る。邦子を呼び出すと、流も、あの二人も、昨日から帰っていないと、うろたえ気味で答えた。流の父は相変わらずの容態で、昨晩は特に人の出入りもなかったと。
 少し警戒を強めてくれと頼んで、一足先に診療所へ戻った。表で待っていた患者に、本郷はすぐ戻ると伝え、裏長屋。
「瑞枝さん」
 開けられた戸口からひょい、と顔を出せば。
「あ」
「おはようございます」
 こちらの心配も何のその、流が笑顔で挨拶をした。昨日までのが嘘のように落ち着いた表情。
「ずっといたんだ」
「はい」
「ここの親子は」
「瑞枝さんは井戸へ。究は番太郎のところへ行って来ると」
「あ、そ。黒い着物の男や唐人は」
「いえ。何かあったのですか?」
 ここに来た理由は覚えていないのか、寝起きで呆けてるのか。全速力でやってきた分、頭を抱えたい気持ちは山々だが。
「まぁ、何かあって、多分、逃げたと思うんだけどな。別の宿にいるっていう使用人は?」
「さぁ…あの二人と共にやって来たので」
「じゃぁ、もうしばらくここに」
「あの」
「大丈夫、大丈夫。落ち着いたら、話すよ。俺もまだよくわかんねぇしな」
 そうは言ったが、自分から話すことはないだろう。彼がこの件に関して知るとすれば、おそらくは瓦版から。『欠月』の仕事は、そうと分かるよう、表に出てはいけない。
「それと。お前の親父、時間はかかるかもしれないけど、治るってよ。ま、町医者の言うことを、どこまで信じるかだけどな」
 深く頭を下げた流を視界の端に、そのまま井戸へ向かう。
「あら、七海さん。早いですね」
「まぁね。あいつ、随分と明るくなったというか」
「えぇ。一晩中、究と事件のことやらなにやらで盛り上がって。おかげで、こちらはろくに寝れませんでしたよ」
 そう言って笑う。
「もうちょっと居させてもらうかも知れないから、何だったら俺の家、使っても」
「七海さんはどうなさるんですか?」
「本郷の家があるし」
 この際、住人の意向は無視だ。
「でも、あの子が七海さんみたいになっても困りますしねぇ」
 瑞枝の悪意のない言葉に、七海は苦笑いしか返せなかった。
「あ、七海さん」
 究がやってきた。
「昨晩、先生とどこかへ行ったって。で、びしょ濡れで帰ってきたって右近が言ってましたけど、何かあったんですか?もしかして、例の件と関係あるんじゃぁ?」
「河童と川泳ぎしてたんだよ。てな訳で、俺は眠いからもう寝るわ。おやすみ」
「え?え?」
 合点いかない究と、くすくす笑う瑞枝を残し、七海は診療所へ戻った。


 診療所では本郷が患者から話を聞いていた。了解なしに――取ったこともないが――二階へ上がると、紫乃が茶を入れている。いつも茶を入れているように思うが、などと口にしようものなら、笑顔で下げられるので、黙って受け取った。
「でも、今日分かった限りじゃ、俺たち三人だけなのかね」
「そうね。いわゆる、実部隊としては」
「意外と少ない」
「それに連城先生、鬼首先生」
 ちょこんと首をかしげて、これももう言っていいことね、と。
「団守彦と」
「…は?」
 なにやら聞きなれた、しかし遠い存在の名前に、七海は理解するのに時間を要した。患者は帰ったらしく、本郷も上がってくる。
「団守彦って、えーと、あのー、江戸城のー」
「老中」
「何でそんな人がっ?!」
「この組織を作った張本人よ」
「そういえば。お前の店は、江戸城に」
 さりとて驚いたように見えない本郷が口を挟む。
「えぇ。おかげさまで、出入りを。さすがに私は入ったことはないけれど」
「え。じゃぁ、もしかして実は元締めって」
 七海はおそるおそる指差したが、紫乃は首を横に振った。
「間違いなく、連城先生よ。ただ、人選は団守彦自らが行なっているわ。だから、何度かお目にかかったことは」
「どこで?」
「店によく」
「老中が来るの?」
「そう。変装してね。二人とも、会っているのよ」
 普通の町人として。本郷と七海はしばし記憶の糸を辿ってみたが、それらしき人物は見出せなかった。
 それにしても、まさか背後がそのような事になっているとは。町奉行が後押しし、黙認している理由もそれか。
「暴露ついでに聞きたいんだけどさ、本郷」
「何だ」
「お前、いくつだ」
「二十六」
「嘘っ!!」
 今日は夜が明ける前からいろんなことがあったが、それのどれよりも驚いたように、七海は飛び上がった。
「嘘だろ?二十六…って俺と同い年?」
「こんなところで嘘をついてどうする」
「ありえねぇっ!え、紫乃は知ってたの?」
 何を今更、と紫乃は頷いた。
「お前に、年齢の話をしたことはなかったと思うが」
「そこはそれ、私の能力とでも」
 ちらりと少し上目遣いで。
「二人がどの程度、吉原に通っているかも知っているのよ」
 ぶっ。
 同時に茶を噴出した二人を見て、紫乃は、嘘よ、と笑った。






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