窓からさしこむ光に、七海は開いた目を細める。昨日とは打って変わってよい天気だ。身支度を整え、自分のトレードマークのひとつである帽子を――そういえば貸したままだった。
コンコン。
「こーちゃーん。あさごはんですよー」
タイミングよく相手がやってきた。こうちゃん、なんて呼ばれるのは子供のとき以来だな。そんなことを思いを巡らせながらドアを開ける。
「…おはよう、ななみ探偵さん」
思わず笑みが浮かぶ。黒いシャツに白のスカート。おそらく坂井夫妻のものであろう、緑のネクタイとだぼだぼの白いジャケット。相変わらず帽子は顔半分を隠しているが、少女はにっと笑った。
「にあう?」
「とても」
でもその格好じゃ、ご飯食べるのには向いてないな、と帽子を取る。ななみは一瞬不服そうな顔をしたが、すぐに笑顔を返した。昨晩、2時間に渡って行った探偵の講義のおかげだろうか。
「おはようございます、七海さん」
台所から澄江が顔を出す。すみません、この子がどうしてもというので。
「いやいや、光栄ですよ」
帽子を遊ばせながら答えると、ななみも同じ動作で同じ言葉を返す。子供に好かれるのも、悪くはないかもしれない。
「朝から、石塚さんのお宅へ行かれるんですか?」
朝食後、坂井の問いに、大掃除をしなけりゃなりませんからね、と七海は笑って答える。
「ななみも!ななみもいく!」
元気よく手を上げたななみに、坂井は仕事の邪魔になるから駄目だと、たしなめる。確かに、捜査現場に――今回はむしろ、あのほこりまみれの家に子供を連れて行く訳にはいかない。また今度、とふくれっつらのななみに笑いかけて、そういえば水道通っていないんだな、と考え込む。電気はともかく、掃除に水は必要だろう。どうしたものかと思案をめぐらせていると、坂井が何やら持ってきた。
「水でしたら、これを使ってください」
がたんごとん。畑のあぜ道を、荷台に白いポリ容器を2個積んだ軽トラックは、のんびり走る。畑で使っているものですがと、坂井が持ってきたのがこれだ。10リットルのポリ容器に水を入れ、軽トラックも借りて、七海は石塚宅へ向かう。しかし、この格好は似合ってないなぁと、のどかな風景を横目にブレーキを踏む。昨日ははっきりと見えなかったが、石塚宅は半分を森に囲まれた、中心街から少し離れた場所にあるようだ。それでも1km強。七海は車を降りる。
「ついたの?」
「!!」
一晩で聞きなれた声に、振り返る。あろうことか、荷台に無造作に置かれていたビニールシートから顔を出したのは、ななみ。まさか一人で乗り込めるはずは――。七海は出発前の状況を思い出す。このトラックが止めてあったのは、倉庫の前。その倉庫には窓がついていて、その高さはこの荷台とほぼ同じ。倉庫の中はどうなっているのか分からないが、何かを足場にして窓までたどり着けたら――。
「勝手に乗ったら駄目だろ?」
おじいちゃん、おばあちゃんも心配するよ?と続けて、小言より先に連絡だと、七海は携帯を取り出す。
「え?ななみがそちらに?倉庫で遊んでいるはずですが」
返ってきた答えは土地柄同様、実にのんびりしたものだった。脱力しつつも、迎えに来てくださいと言いかけて、坂井も車で出かけたのを思い出す。玄関にあった杖は女性物だった。澄江に、この距離を歩いてこいというのもどうか。
「仕事の邪魔しないって約束できる?」
もう既に邪魔をしたようにも思うが、自分の問いに大きく頷く少女。七海は、一区切りついたら送りますので、と電話を切る。
「さて、と」
一通り小言を言ったものの、あまり堪えることなくはしゃぐななみから目を離さないよう、準備を始める。
「こんどは、こーちゃんが、ななみとおなじだね」
帽子と上着を脱ぎ、ネクタイもはずした七海を見て、ななみは自分の服を指差す。
「今から、大掃除しなきゃいけないからね――。あ、そうだ」
ハンカチを取り出し、少女の顔半分を覆う。
「なに?」
「家の中はほこりだらけだから」
「こーちゃんは?」
「こーちゃんは大人だからいいの」
ふうん、とななみは自分の鼻と口を覆ったハンカチを見て、ごうとうみたい、とつぶやく。もう少し見るテレビ番組を考えるように言っておいたほうがいいかも、と七海は心の中で余計な心配をしながら、ポリ容器と掃除用具一式を持って家の中へ入る。
「へぇ」
「すごーい」
ほぼ同時に呟いたのは、昨日は薄暗かった廊下。いたる所から入る日の光と舞い上がるほこりによって、そこは一種の幻想的な雰囲気をかもし出していた。むろん、健康上あまりよろしくはない。
七海が真っ先に向かったのは、昨日目をつけたうちのひとつ。1階にある部屋。リビングより少し狭いぐらい。ただ、壁は他のところと違って防音が施されている。本棚に詰まっているのは、おそらく楽譜だろう。部屋の隅にバイオリンのケースが、中央にグランドピアノが置かれていた。
坂井の話では、総一が亡くなるまで、全員がこの家に住んでいた。何かを隠す場合に都合がいいのは、当然だが人があまり来ないところ。それが可能なのは、総一の部屋を除くと、ここと物置ぐらいしかないように思えた。総一と由香里以外は、音楽に興味がなさそうだったという坂井の話も1枚かんでいる。ピアノを見ると、蓋の側面には、シンプルながら洒落た装飾が彫り込まれ、「YUKARI」と名が刻まれていた。
「ななみ、かえるのうたひけるよ!あとねー、チューリップとねー」
それにここなら、子供の興味を向けさせることもできる。
「じゃぁ、後で弾いてもらおうかな。少し掃除しないと」
庭に面した窓を開ける。草が茫々に茂っているその先は森になっていた。
「おばけがでそうだねー」
何故か楽しそうにななみが眺める。
掃除は思ったより早く終わった。ななみが持ってきた『霧吹き』のおかげで。背負ってきたリュックから取り出した時は何かと思ったが、母親から教わったそうだ。なるほど、これならホコリが立つのも随分押さえられる。それにしても、彼女の母親はどこからそんな知識を得たのだろう。ホコリまみれの家にしか、必要なさそうな技だと思うのだが。
「…ん?」
一通り箒ではいて軽く雑巾がけをした床。しかし、部屋の隅に四角く、ほこりの縁取りができている。よく見ると、フローリングの一部がずれている。それをはずすと、さらに板が――穴の開いた小さな扉が現れた。掃除したのは無駄ではなかったらしい。ライトで照らすと、穴の内部に凹凸が見える。鍵穴だろうか。とすると、鍵は――。
「あぁ、それであの暗号か」
依頼状を取り出す。『基準。ゲー・ベー 8ツェー ┐ 8エー ┘』。昨晩は、坂井の話を頭の中に叩きこんで整理して終わってしまった。頭をひねっていると、ピアノの音が流れてきた。いつの間にか、ななみが弾いていた。しかし、さすがに15年もほったらかしだっただけあって、音の調律はすごいことになっている。自分の音感まで狂いそうだ。――音感。
音楽のために作られた部屋にあった隠し箱。からくり人形の職人。誰も触っていないピアノ。ツェーは、ドイツ語でのC。
「なるほど、アルファベット…」
だとすると、『8 ┐ 8 ┘』の意味は。わざわざ改行して書いてあるのにも理由があるのだろうか。
「こーちゃん」
「こーちゃん、今忙しいの。後でね」
「おねーさんがいるよ」
思わず顔を上げる。とたんに、風が吹き紙が飛ばされる。草の生い茂った庭。そこに立っていたのは、昨日駅で会った少女だった。
「こんにちは」
「こんにちは」
七海の挨拶に、少女も笑って返す。飛ばされた紙を拾って、文面を眺め、微笑む。
「音楽のお勉強?」
「お勉強――と言いたいところだけど、それはやっぱり音楽記号なんだ?8とか┐とかって」
この暗号は他言しても問題ないと判断し、聞いた質問に、少女はあっさり答えた。
「1オクターブ上、って意味よ。よく楽譜に書かれているわ。『8var ┐』とも書くわね」
「あ、そうなの」
「こーちゃん、おんがくできないの?」
楽典はさっぱり、とななみの指摘を半分肯定する。声帯模写を得意とするのだから、音感には自信があるが――もっとも、絶対音感などというものはない。
「というと、『8 ┘』は1オクターブ下ってことになるのかな」
それなら、改行の意味も理解できる。最初の行は、基準のゲー、ベー。2行目が1オクターブ上のツェー。最後が、1オクターブ下のエー。
「…基準ってどれだよ」
呟いた言葉に、少女がくすりと笑う。今後のためにも勉強しておいたほうがいいな、と思いながら七海は、自分よりは音楽に精通しているであろう少女に向かって、少し教えてほしいんだけど、と手招きをする。
「入って、大丈夫なの?」
「俺らもここの住人じゃないし。大丈夫」
不審者と名乗っている台詞以外の何物でもない七海の言葉にも、少女は気に留めた様子もなく、ピアノの前に立つ。ここが基準のドレミファソラシ、と音を鳴らす。アルファベットではCDEFGAB。
「というと、『ゲー』はここ、『ベー』はここ…」
ソとシの音を鳴らす。
「ベーはそこじゃないわ」
少女が指差したのは、シの隣の黒鍵。
「あれ、違ったっけ?」
「ドイツ音名は、CDEFGABじゃなくて、CDEFGAH(ツェー、デー、エー、エフ、ゲー、アー、ハー)なの。B(ベー)はシのフラットを指すのよ」
へぇー、と素直に感心する七海に。
「こーちゃん、ちゃんとおべんきょうしなきゃだめでしょ?」
ななみの駄目だしが出る。
「すみません、先生」
ノリで謝ってから、少女の言った通りの鍵盤を順に押していく。もちろん、音は狂っているものの、何か手応えがあった。しかし、何も起こらない。
「他の鍵盤に比べて、何かひっかかってる感じはするんだけどなぁ」
一度に弾いてみる。カラン、と音がした。
「かぎが、おちてきた!」
ピアノの下に潜ったななみが声をあげる。這い出てきた手に握られているのは、木製の鍵。大きさも、あの穴にちょうどよい。
「何?それ」
「これは――まぁ、企業秘密。手伝ってもらっておきながら答えられなくて申し訳ないけど」
「悪事でなければ、別にいいわよ」
「子連れでくる悪党がいるかね」
そう言って、少女と七海は同時に笑う。
「じゃぁ、私はこれで」
「ありがとう」
少女を見送ってから、七海は、今度会ったら名前を聞くのを忘れないようにしようと頭の片隅に留めて、鍵を穴に挿しこむ。
ギィ。
軋む音がして、鍵は180度回る。そのまま引き上げる。小さな木製の床下収納には封筒が入っていた。また手紙か。ななみのピアノを聞き流しながら――おそらくチューリップなのだろうが、いかんせん、音が狂っているので出来不出来はよく分からない――手紙を広げる。ざっと目を通し、さらにもう一度読み返す。ため息が出る。随分と、めんどうなことになってきた。15年前なんて、人の記憶はおろか、資料も残っていないんじゃないか?
坂井の家に戻ると、ちょうど坂井も帰ってきたところで、ななみはいくらかしぼられたが、相変わらず懲りてはいない様子だった。お転婆という言葉でひとくくりにしていいものか。その度胸と好奇心と行動力は感心するが。「ななみ」という名を持つ人間は探偵向きなのかもしれない。そんなことをつらつら考えながら、ちょっと出かけてきます、と言った七海に、坂井は快く車を貸してくれた。
「満タンにして返します」
澄江に腕を掴まれているななみを確認して、出発する。