I SAY HIM, “GOOD-BYE”
静かな夜だった。自宅にいれば、大抵は静かだ。つまり、いつも通りの夜。
小さなグラスを持って、薄暗いリビングに入る。そこでは、七海が大の字になって微かに寝息を立てていた。時計は午前3時。
誕生日の前祝い。そう言って押しかけてきたメンバーは、いつも通りの七海と片桐、そして真木と、珍しいことにドクター・ドクロがいた。彼の狙いはバランタインだったが――早い話、前祝というよりただの飲み会だ――目的は果たせず、真木と一緒にタクシーに乗ったのが日付が変わる数分前。部屋にあった酒が無くなったのが、つい10分前。片桐は、2時間ぐらい仮眠させてね、と本郷の寝室に内側からバリケードを作って寝てしまった。彼女が人の部屋で酔うパターン。おかげで、部屋の主はソファで一晩過ごす羽目になる。
カタン、と音を立てて置いたグラス。ボードから取り出した、一本のボトル。
バランタイン、30年。
グラスが色づく。小さな音を立てて落ちた、最後の滴。空になるまで、どのくらいの時間を要しただろう。薄明かりに揺れる、琥珀の色をぼんやりと眺めた。
記憶はいつも、あの日に戻る。
1ヶ月。父と呼び、母と呼んだ人達がいた。
当時にしては珍しい、入れ替わりを伴った長期の潜入調査だった。それは正しい言い方ではないだろう。ある夫婦からの依頼。息子を装って欲しい。そして、本当の息子を探して欲しい。今でこそ、ドクター・ドクロによるラバーマスクを用いての、特に、足元に転がっている男が得意とする潜入捜査は多い。だが、そんなものが一般的ではなかった当時は、そもそもそんな依頼自体がなかった。依頼人が、たまたま本郷を見かけたのが、発端だった。彼らの息子は、団や連城が見ても本郷に良く似ていた。DDS卒業間近。多少、荷が重いかもしれないが、と言った団には、事件の見通しはついていたに違いない。
息子は関西の大学に通っていたが、12月のある日を境に、連絡が途絶えた。折りしも、バブル成長期。夫婦の土地に目をつけた地上げ屋が、脅迫まがいに足しげく通っていた。夫婦は、息子に譲るからと撥ね付けていたが、相手はあの手この手、詐欺まがいの行為までしたのだろう、息子自身の意志がなければこの土地を売る、その期限を1月末まで、という話になっていた。むしろ、その時の契約等の調査依頼したほうが良かったのではと、今さらながら思う。
それはともかく。本郷は、彼らの息子として地上げ屋の対応を行い、合間を縫って関西で本人の足取りを追っていた。2人でやった方が効率的だが、あの時は全く人手がなく、時間をかけてでも1人でやるしかなかった。捜査の期間は、完全に彼らの息子として過ごした。あそこまで別人になる努力をしたのは、後にも先にも無い。外見こそ同じだが、彼は喜怒哀楽を豊かに表現し、人付き合いの良い人間だった。初めの3日は、彼を知ることに費やした。夫婦との間のぎこちなさは、1日で解消した。自己暗示に近かった。
必要以上の感情移入は危険だ。それは頭の片隅で常に警告を鳴らしていた。だが、20歳そこそこの若造には、完全に制御できるものでもなかった。1ヶ月も一緒に暮らせば情も移る。自分には「探偵」という、非情になれる術があったのがまだ救いだ。しかし。
あの夫婦にとってはどうだったのだろう。息子と同じ顔をした人間の口から、「ご子息の件ですが」という台詞が発せられるのを。
そして、その死を告げられるのを。
事件自体は簡単なものだった。土地の価値に目がくらんだ地上げ屋が、息子を殺した。その証拠と死体を捜すのに、相当の時間を費やした。団が言っていたのは、事件そのものではなかった。
最後の日。荷物をまとめていると、父親がやってきた。一杯、つきあってくれないか。手に持っていたのは30年物のバランタイン。いつか、息子と飲もうと取っておいたものだ。
「自分に、その資格はありません」
そう言った本郷に、父親は優しく笑いかけた。君は、息子以上に我々の息子でいてくれたよ。聞けば、息子との関係は、それほど良いものではなかったらしい。つまり、本郷は、彼らの理想の息子を演じきったのだ。その終演。グラスを受け取った。
1月18日。
彼らの息子を、自分の中から抹殺した日。
事件に関係するものを除いて、こちらから一切の連絡は取らない。別れ際、確かにそう言った。それでも、毎年、季節の便りは届いた。
父親が倒れたと手紙を受け取ったのは、それから4年後。消したはずの感情が蘇る。気がつけば、足はあの家へ向かっていた。探偵としての領域を、はみ出してはいた。非難されても文句は言えない。たいそう喜び、増えた傷に心配の色を見せ、あの頃のように迎え入れてくれた夫婦に、思慕の念を抱いたのは事実だ。
その翌日。父親は永眠に就いた。早すぎる、だが、安らかな別れだった。
「形見分けと思って、貰ってくれないかしら」
取り出したのは、バランタイン。まだ、半分以上残っている。
「毎年ね、貴方と飲んだ日に、1人でこの小さなグラスで1杯だけ、飲んでいたの」
思い出を大事にするんだって、ケチくさく。彼女はそう言って泣いた。これを最後にしよう。本当の息子を、これ以上、冒涜するような事をしてはいけない。本人以上に、本人になってはいけなかった。
彼女の再婚の知らせは、その3年後に届いた。最後に書かれた「今までありがとうございました」。その一言に、肩が軽くなったような気がした。
それでもまだ、ボトルの中身は減らない。
規則正しい時計の秒針。微かに唸るエアコン。いつも通りの、静かな夜。
「なぁ、本郷」
静寂は突如破られた。
「起きていたのか」
「ばっちり」
大の字になったまま、七海は窓明かりに照らされた天井を見つめていた。
「今年で、終わったか?」
団ですら、この事は知らない。ドクター・ドクロが話を降るたび、さりげなく矛先を変えていた2人。
「――あぁ」
「そうか」
おめでとう。一瞬、聞き間違いかと思ったが、七海は確かにそう言った。いつもとは違う真摯な口調で。
「長かったな」
「――そうだな」
1年に1回だけ。それも、小さなグラスに1杯。父親が残したものを、彼と同じ方法で。
彼が懐古の意であれば、自分のは贖罪に近い。夫婦の記憶に「探偵」以外の自分が残ってしまった事を、常に自分への戒めとして。
「これでお前の家の酒は全部無くなったわけだ」
よっ、と跳ね起きた七海は、首をぐるりと回して、企みを含んだ笑みを浮かべて本郷を見据えた。
「今度は、オレが買ってやるよ。バランタイン。で、オレが死んだら、その日に一杯ずつ飲むってことで」
「ふざけるな」
「ふざけてねぇよ。オレが死んでお前がのうのうと生きてるってのも腹立つし」
何かと思いつめるタイプに、ちょうどいい置き土産だろ。片眉が上がったのは、どちらの言葉か。
「その場合は、お前の葬儀で全部飲み干す」
「うわ、ひでぇ。それっきりオレは記憶から削除されるのかよ」
削除したくても素直に消えるキャラクターでもないだろうに。
「でもさ」
再び、落ち着いた口調に戻る。
「誰かの記憶に、お前じゃないお前が残っているってのも、いいことだとは思うぜ?」
意味をなさない接続語の後の台詞を理解するのに、数秒。
「――お前はもう少し、自粛した方がいいと思うがな」
「――まぁ、オレはどちらかというと、『七海光太郎』を覚えてもらっちゃ困るから」
いけしゃぁしゃぁと言い放つ七海に、本郷はいつものように呆れ、少しだけ、七海光太郎という男を見直した気がした。
確かに団の行った通り、荷が重い事件だった。『何かと思いつめるタイプ』には。つまり、手掛けた事件の何割かを、自分と同じ境遇で解決してきた男は、自分以上に心の奥に拭いきれない感情を積み重ねて、生きている。
「…なんだよ」
「別に」
「心ここにあらず状態で見られるの、苦手なんだけど」
「だったら寝ていろ」
「やだ。襲われそう」
「一文の得にもならんことをやろうとは思わない」
「一文の得になったらやるのかよ」
お前の冗談は冗談に聞こえないからタチが悪い。七海はそう言って、再び床に倒れた。
いつも通りの、静かな夜。
今までとは違う、静かな夜。
1月18日。
一緒に年を重ねてきた『彼』との永別を決意した日。
06/01/18
探偵としては有能で器用な本郷先生も、人間としては不器用だと思うのです。弱気になった七海さんを問答無用で殴るぐらいには(笑)。
入れ替わりの潜入捜査って、本人になりきらなければいけないけれど、本人以上になってはいけないのかなと。それって難しいかな、と。
飽きもせず飲み会設定ですが、実は「I SAW THAT YOU MEET HER YESTERDAY」を引き摺っています。バランタインとドクター・ドクロはその関係で
こんな話になってしまいましたが、本郷先生、お誕生日おめでとうございます!