WHAT ARE YOU FOR HER?
探偵の仕事、と聞いて素行・浮気調査を挙げる人は多いだろう。名の知れたDDCにも、そういう仕事は舞い込んでくる。そして、よほどの理由がなければこちらに拒否する理由はない。
「1ヶ月、ねぇ…」
七海は双眼鏡を覗いて、呟く。依頼人は40代の男性。妻が浮気をしているらしい、1ヶ月見張って証拠を押さえて欲しい、と息巻いていた。
「…1ヶ月ですか?」
「そうだ。どのくらいの頻度で会っているのかも、そう、出来る限りのことは知っておきたい」
1ヶ月間、1人の人物に付きっきり。その分、費用も嵩むが、依頼人は気にはしていなかった。
そうして始まった『監視』。5日目の今日まで、買い物は週末にまとめて済ます彼の妻は、郵便ポストより外には出なかった。言い変えれば、行動を起こしたのは今日が初めてだった。
女性が家を出たのは午後2時。着飾って、心なしか足取りも軽く、たどりついたのは街中の喫茶店。さては、と七海は向かいのファーストフード店へ入る。コーラを買い、喫茶店に目をやって、思わず「あっ」と声が出た。
彼女が座った席の向かいにいた人物。観葉植物で一部しか確認できないが。
「本郷!」
――何だってアイツが。
本郷の前にはコーヒーカップが既にある。女性はバッグを横の座席に置いたばかり。向こうも探偵、こちらに気がつく可能性は高い。七海はより一層の注意を払い、観察する。当然声は聞こえないが、女性の身振り手振りと本郷の表情からして、それなりに和やかな雰囲気らしい。一体、どういう――。
はた、と七海の思考が止まる。それを無理やり動かす。浮気をしているらしい人妻が、調査を始めて現在唯一会った人間と、楽しそうにおしゃべりをしている。それはつまり。
――アイツが浮気相手?
いやいや、いくらなんでもそれは。しかし、そうすると本郷まで楽しそうな――自分から見れば――理由は何だ。それよりもオレはこの現場を写真に取るべきなのか。
――捜査に私情は禁物だ。
七海はカメラを構える。しかし、ファインダーの中に本郷はいなかった。
あの一瞬の間に、女性を残して本郷は去ってしまったらしい。気が付かれた、か。
七海も本郷もある程度の裁量――時にそれは『信頼』とも『放任』とも言われる――がある故、このような長期的な仕事であれば、毎日DDCに顔を出す必要はなく、余裕があれば1日1回ぐらい電話で報告しろ程度である。数日間音沙汰なし、も珍しい事ではない。
「紫乃ちゃん、本郷って今どうしている?」
いつものように10秒足らずの電話のはずが、思わず口に出た。
「本郷君?えぇと、2週間前から見ていないわね。確か、埼玉の方へ行っているはずよ。まだ終了の連絡は来ていないから、急な用事なら――」
「いや、いいんだ、別に。じゃ、おやすみ」
依頼人が彼女の傍にいない時間帯のみの調査。そして依頼人は概ね規則正しい生活を送っている。よって、自分も探偵ながらそれなりに規則正しい生活を送る事が出来ている。何かあったら依頼人が連絡をくれるという。切羽詰るどころかDDCに顔も出せるくらいの余裕だ。ありがたさを感じながらベッドにもぐりこむ。しかし、眠気は来ない。
埼玉なら、遠くはない。発信機が付いているわけではないのだから、その間の行動は誰にも分からない――。
そう考えて、布団の中で1人笑う。バカか、オレは。たかだか1分2分会うだけの浮気がどこにある。あれから女性もデパート巡りをして、誰にも会わずに帰り、依頼人が帰宅するまで、1歩も外に出なかったではないか。
1つの疑問が解決し、寝ようと目を閉じたところで、チャイムが鳴った。
やって来たのは当の本郷だった。時間感覚が狂っているのはお互い様だが、日付が変わる頃に連絡も入れず手土産もなく、ついでにいつもの事ながら愛想もない。玄関に突っ立ったまま、本郷は切り出した。
「彼女を見張っていたのは仕事か」
やはり気が付かれていた。本郷の事だから、彼女が店に入る前に周囲を確認していたのかもしれない。あの席は、植物越しに通りを見渡すにはちょうどいい。
「ストーカーになった覚えはないけど」
「ストーカーでも仕事でも構わん。1週間、俺と彼女が会っていた事を依頼人に報告せずに済むことは可能か?――もちろん、こちらも、お前の事を彼女に話す気はない」
突然の一方的な提案に、先の浮気疑惑がぶり返す。
「…駆け落ちの準備でもしてんの?」
「最終的にはそのようなものだろうな」
「はぁ?!」
思わず出た大声にも、本郷は表情を変える事なく、七海の答えをまっている。
「…そう急に報告なんて話はないと思うけど」
「分かった」
「あ、おい、ちょっと待て」
ドアノブに手をかけた本郷の腕を咄嗟に掴む。
「何だ」
「……飯でも食っていけば?」
何を言っているんだ、オレは。本郷は、寝ているところを邪魔したな、と去っていった。寝ぼけてはいない、という言葉は届かなかった。
あの状況で本郷が仕事内容を話すはずもなく、七海に余計な疑惑を残したまま、1週間が経った。
女性の外出記録は、昨日、再び本郷に会っただけ。今度は少し長く、1時間程。分厚い茶封筒を2つばかり渡されていた。これで疑惑は晴れる。女性は本郷の依頼人、ということだ。仕事が他者とぶつかった場合、重要度に応じて譲り合うというのは少なくない。
「…で、何で駆け落ちなんだ」
彼女が駆け落ちをするなら、依頼人である旦那には早急に報告せねばならないが――。
そういえば、その依頼人が勤めている会社は埼玉にあった。もしかしたらアイツはこちらの依頼人を調べているのかもしれない。つまり、夫婦がお互いに探偵を雇って調べさせた。
「…旦那も浮気してるのかな」
その依頼人が横領で逮捕された、というのはそれから2日後の新聞で取り上げられていた。告発があった。完璧に近い証拠も一緒に提出された。新聞には書かれていなかったが、知り合いの警官から、容疑者の妻がその証拠を持って来た、と聞いた。それらは本郷が3週間で出した成果だろう。
七海の方にも当然影響は出た。新聞が賑わう前日に依頼人が逮捕され、数時間後には妻を尋ねてきた若い男性がいた。依頼人の言った通り、彼女は浮気をしていたのだ。しかも相手は、依頼人が勤めている会社の人間だった。
「彼女はお前の依頼人だったのか?」
久しぶりにDDCで顔を会わせた本郷を無理やり昼飯に誘い、七海は尋ねた。秘密を守る職業、内容にまでは踏み込めないが、多少の事は聞けるはずだ。
「そうだ」
「何で妻が旦那の横領について探偵に依頼するんだ」
「お前の依頼内容に関係するだろう」
旦那は妻が浮気していると疑っていた。そして、それは事実だ。では、その場合、展開としてはどうなるか。離婚、となれば原因を作った彼女は慰謝料を請求されるかもしれない。しかし、その前に旦那が捕まれば、彼女から離婚を申し出る絶好の機会だ。
「駆け落ちの準備、ねぇ…」
小説なら、駆け落ちのために旦那に濡れ衣を着せて云々、というのもあるだろうが、今回はそのような発展になる可能性はない。
「というと、お前、あの奥さんの浮気を知っていて、依頼を引き受けたのか」
「横領は横領だ。男女の恋愛関係に、口を出せる立場ではない。彼女から直接聞いたわけでもないが、あの話振りからすれば想像に堅くない」
「…あぁ、そう」
大事の前の小事とかいうヤツか。確かに旦那の逮捕協力を嬉しそうにする妻はあまりいないだろう。
「あの時点で、オレが彼女の浮気調査をしているって気が付いたのか?」
「その前の2週間で、会社の調査はほぼ終わっていた。彼女の浮気相手がいることも。あのあと、しばらく様子をうかがったが、やはりお前は彼女を尾行していたようだしな」
「それでお前は安眠妨害に出たわけか。で、ほとぼりが冷めたら、彼女は浮気相手と逃避行。女って怖いね」
ぬるくなったお茶を一気に飲み干す。
「でもま、横領だろうが何だろうが別問題なわけだし。まだ1ヶ月経ってないけど、オレは依頼人に報告するよ。問題ないだろ?」
まさか本郷が、犯罪に巻き込まれるというわけでもない――むしろその逆の――彼女に示唆するとも思えないが。
「あぁ。こちらの仕事は終わった」
立場上、探偵は仕事が終われば依頼人の事は忘れなければいけない。依頼人としても、用がなければ忘れて欲しいはずだ。本郷からその「忘却」の合言葉を聞いて、七海は立ちあがった。
七海と本郷が揃って、忘れたはずのその夫婦から、泥沼と化した離婚裁判の証人に呼ばれたのは、それから数ヶ月後のことである。
08/07/31