THE BACK
時間の感覚が分からない。時計を見ても、ただの数字と針しか目に入らなかった。
「紫乃」
かけられた声に、顔を上げる。ドアを開ける音はしなかった。自分を見て、一瞬、視線が険しくなった。
「時計は持っているか」
「え?えぇ…」
「今が、午後6時」
そう言って、自分も時計を見る。
「30分あれば、帰れるな」
「――何を…」
抗議の声は続かない。軽く睨みつけられただけで、反論ができなくなる。
「往復に1時間。風呂に入って寝て、食事をして――合計8時間あれば、十分だろう」
「待って!――そんな…帰れるわけ、ないじゃない」
確かに、自分は我侭だと思う。皆が慌しく働いている中、ほとんどの時間、ここにいるのだ。
「――顔色が、悪すぎる」
人の話など聞いていないように言葉を続ける。顔色?――誰の?
「団先生に、余計な心配をかけさせるな」
「え?」
ずっと自分を捕らえていた視線が、ベッドへ移動する。つられて、顔を向ける。ベッドの向こうは、漆黒の窓。いつの間に日が沈んだのだろう。そこへ映る自分の姿。
そうだ。昔から、ずっと――。
「そう…そうね。分かったわ」
椅子から立ち上がる。関節が固まっている気がする。少し、ふらついた。
「1時間ぐらいの寝坊なら、構わん」
「あら――私が、寝坊なんかしたこと、あったかしら?」
何処かの誰かさんとは違うわよ、と微笑む。たぶん、ぎこちなかっただろう。だが、そんな自分を見て、表情から厳しさが消えた。
「そうだな。だが、その前に団先生の意識が戻られたら、問答無用で叩き起こす」
「――ちゃんと、8時間後に戻ってくるわ。そうしたら、交代よ」
「――あぁ」
部屋を出る間際。少し、振り返った。凄く近くにあるのに、果てし無いほど遠くに見える背中。後ろを追っていたわけではない。目指すものは一緒だったはずだ。だが、その背中を見ていたことは多い。いうなれば、ベクトルが違っていたのかもしれない。それに気がついたのはいつだろうか。頼っているつもりは無いのに、いつまで、その背中に甘えていられるのだろう、と考える自分がいる。
僅かに音を立てて、ドアを閉める。正面玄関へ向かう。外来診療が終わり、人はまばらだった。
「――七海君!」
その閑散とした待合室に、見慣れた姿があった。ソファを1つ占領して、寝息を立てている。
「なんて所で――」
起こそうとして、声を飲み込む。毛布が掛けられている。ちょうど廊下を歩いてきた看護師と目が合った。彼女は、軽く、承諾の頷きを返して去っていった。
時計を見る。時刻を把握できる。8時間後――午前2時?どうやら、単純に甘えさせてはくれないようだ。だが、そのくらいが、ちょうどいい。
「――せっかくだから、1時間の寝坊、させてもらおうかしら」
きっと、何処かの誰かさんは、叩き起こされるまで起きないのだから。
05/05/23
本郷先生の「紫乃」発言に狂って書いたものです。あの話でツボだったのはひたすらフォローに回る本郷先生。素晴らしい。